10.黒野田(笹子駅)〜勝沼(勝沼ぶどう郷)



前回の終了時点のJR中央線の笹子駅勝沼まで15.5Kmを歩きました。

交通費は

行き:842円 高幡不動(6:30)〜高尾(7:28)〜笹子駅(8:28着)

帰り:1167円 

大善寺:500円

かんごおやじのほうとう 1,500円

ビールとつまみ:400円

=4,400円

で過ごしました。

今回も、一人で歩きます。街道は、街中を歩くのではなく、ほぼ山道で、笹子峠をこえます。
ちょうど、自動車で中央高速の笹子トンネルがありますが、そこを歩いて峠を越すイメージです。




(2)JR中央線の笹子駅
諏訪に歩き出す方向。
ちなみに、旧甲州街道は、鉄橋右下のトンネルを通ります。












(3)普明院(ふめいいん)
臨済宗 黒埜山(くろのやま) 
戦国時代、黒田宿本陣の天野家の祖先が(1583年 天正11年)に開祖。
「江戸日本橋より二十五里」の日がある。
境内には、無料のおみくじがあったので、頂きました。
無料のおみくじは初めてです。












(5)脚下照顧
自分の足元をよくよく見よという意。
もと禅家の語で、他に向かって悟りを追求せず、
まず自分の本性をよく見つめよという戒めの語。
転じて、他に向かって理屈を言う前に、
まず自分の足元を見て自分のことをよく反省すべきこと。







(6)笹子峠の入口
入口がわかりづらい。この先笹子峠を越えるまで、3時間かかる。
コンビニはもちろんありません。またすれ違うひともまばらです。











(8)笹子峠の入口

まともな標識は、これぐらいです。












(9)笹子峠越え

甲州街道は、自然がの残っており、へたなフィールドアスレチックよりも野外を楽しめます。
1本橋は、5か所ぐらいありました。










(10)矢立ての杉
根回り:14.8m
目通り:9m(目の高さの位置の幹の周りの長さ)
樹高:26.5m
幹は、地上21.5mでおれており、樹幹中は、空洞になっている。
山梨県指定天然記念物
出陣の武者がこの杉に矢を射たて武運長久を祈った。







(11)矢立ての杉

ちょっとやりすぎ。 横には、音楽が流れる装置があったが、壊れていて音が出ない。
曲を聞いたら、良いではないですか!!!! 
https://www.youtube.com/watch?v=r6V7wdPQMjY











(12)笹子隧道(ささごずいどう)<大月側>
昭和13年竣工。(工完) そのご、昭和33年に国道20号線新笹子トンネルの開通により役目を終えた(現在も、通れる。登録有形文化財)
東京側から(山梨県大月市)と山梨県甲州市を結ぶトンネル。









(13)笹子峠

標高:1096m わかりにくい標識の一つ。
他の標識よりはまだましであるが.....












(14)笹子隧道(ささごずいどう)<甲州市側>

12の甲州市側の隧道です。隧道の長さは、239mです。
薄暗く、ちょっと怖い。私は、峠をこえたので、このトンネルは、くぐっていないのですが
笹子峠の一部を越えました。大月市から甲州市に入ります。







(15)天狗橋

天狗橋で、やっと笹子峠は終了です。
9:23-11:49の約3時間をかけて笹子峠を越えました。
東海道五十三次や、甲州街道、奥州街道の中で一番険しい峠越えでした。

歩く道は整備されていない。標識はわかりにくい。急な登り道が多い。







(16)駒飼宿(こまかい)
いにしえこの地はには「甲斐源氏の牧」があった。
甲州道中宿村大概帳(こうしゅうどうちゅうしゅくそんだいがいちょう)によると駒飼宿は、
宿内家数は、64軒、人口は、274人。
笹子峠を越える馬の食料を調達することで発達した宿場。












(17)武田勝頼公腰掛石

新府(韮崎)から落ち延びてきた勝頼が腰かけた石。
石から武田菱が浮いて見えるということだが、見てもわからなかった。










(18)鶴瀬宿

甲州道中宿村大概帳(こうしゅうどうちゅうしゅくそんだいがいちょう)によると鶴瀬宿は、
宿内家数は、58軒、人口は、242人。

鶴瀬宿には、「鶴瀬の口留番所(くちどめばんしょ)」関所よりも小さく、物資の流通の軽火器を「入り鉄砲に出女」を取り締まった。










(19)観音堂

本堂は、聖観世音菩薩で京都清水より勧請したもので、
養蚕の守護神として信仰が篤かった。
広重は、境内からの景色を「古今絶景なり」と評している。











(20)117ポスト

日本橋から、117Km来ました。
204kmのうち半分かな〜。 
一人で歩いているといろいろ考える!!!!











(21)近藤勇の 「柏尾古戦場跡」
甲陽鎮撫隊顛末記によると、一行は、雪解けの笹子島へを越え駒飼宿本陣に宿営した。ここで、先発より土佐藩の乾(後の板垣退助)率いる、東山道先鋒隊(3,000名)がすでに甲府城に入場したとの報告を受けた。甲府城の城代の佐藤駿河守(するがのかみ)は、「ひとまず甲府を引払い江戸で、旗本と合流し、抗戦すべし」と近藤勇が甲府城到着の一日前に結論を出し、城を放棄してしまった。この情報が隊に知れ渡ると、脱走が相次ぎ、夜が明けると総員は120名になってしまった。新選組の古参約20名以外は、戦闘経験のない烏合の衆でった。

そんな中での戦は、午前の開始から2時間で一行の敗退は決まった。






(22)柏尾戦争の資料

中央の白い武者は、近藤勇。その後ろの門は、次の写真の大善寺の山門

この地で、刀と近代の鉄砲を使って、殺し合いをしていたと思うと心が切なくなる。









(23)柏尾戦争の大善寺

甲陽鎮撫隊顛末記によると、当初近藤は、大善寺を本陣と考えたが、武田家所縁の名刹(めいさつ:由緒ある寺など)を血で汚しては、非礼として、柏尾山に橋頭堡(きょうとうほ:橋をまもるための砦)を築いた。
慶応4年(1968年)3月6日 昼ごろ戦闘が開始した。近藤は、城鉢巻きに鎖帷子(くさりかたびら)
を着用してし、3尺8寸の宗貞の太刀で奮戦したが、1尺は、約30cm、1寸は、3cm である。
宗貞は、約114Cmとなり、(平均:2尺3寸 70Cm)長い。
向風が強く、官軍の硝煙で、一寸先が見えない状態であった。勝敗は、1時間余りで、決した。剣一筋の新選組は、近代装備の官軍には、歯が立たず、総崩れとなり、八王子まで後退して解散した。近藤は、流山で、官軍に捕らわれ板橋で斬首される。土方は、会津、宮古、函館と転戦し五稜郭で戦死、幕末のあだ花は、露と消えた。




(24)薬師堂
養老2年(718年) 行基(ぎょうぎ)がこの地で修行し満願の日に右手にブドウを持った薬師如来が現れ、これと同じ像を造り安置した。以来ブドウは、法薬として栽培されるようになった。
落ち延びる武田勝頼の一行は、薬師堂で夜を明かした。

行基とういひとは、寺と僧侶を国家機関と朝廷が定めそれ以外の直接の民衆
への仏教の布教活動を禁じた時代に、禁を破り畿内(近畿)を中心に民衆や豪族など階層を問わず広く仏法の教えを説き人々より篤く崇敬された。そして行基集団を形成し、
道場や寺院を49院、溜池15窪、溝と堀9筋、架橋6所、困窮者のための布施屋9所等の設立など数々の社会事業を各地で成し遂げた。
理慶尼が、いて、信玄公の従妹(勝頼のおば)であり、武田家の滅亡までの記録を残している。




(25)田中銀行
国登録有形文化財そして、経済産業省近代化産業遺産。勝沼郵便電信局舎として建てられのちの山梨田中銀行の社屋として利用された洋風建築。










(26)勝沼宿

元和4年(1618年)宿開設となる。甲府盆地のの東端に位置して、峡東地方の物資集積の地として栄える。万治元年(1658年)より市が立ち大いに賑わった。 甲州道中宿村大概帳(こうしゅうどうちゅうしゅくそんだいがいちょう)によると、宿内人口786人と大きな宿場町であった。












(27)勝沼ぶどう郷

16:07の中央本線にのって、終了。












(28)甲府盆地を東から鳥瞰

素晴らしい景色。山梨にすみたくなってしまった。